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110周年・できごと (戦争中のこと2)

(2022年 初掲載)

秋田県立視覚支援学校オリジナルキャラクターのチューモくんです。
「チューモくん日記」では、本校やその周辺のことについて語っていきます。

秋田県立視覚支援学校は、令和4年度で創立110周年。
今回は、戦地に赴いた人たちについての話題です。

かつては、軍に召集されれば出向いていかなければなりませんでした。1942年(昭和17年)の『校報 創立三十周年記念号』の「人事消息」欄には、結婚された教員、新任教員などの紹介に並んで、兵役に就いた教員も紹介されていました。

大竹先生、八月に晴の召集に応じ、今北部第十七部隊に勤務、熱と意気で第一線の将兵とおなじ猛訓練を受けられている由、只先生の御健康をお祈りして止まぬ。
三浦先生、第一線で前後五ヶ年の猛活動無事に終えられ、元気で八月末芽出度帰還九月から聾部五年の担任として、亦期すく社の親切なよい先生として軍隊での真剣そのままで教育にいそしまれているので、子供たちは非常に喜んで居られる。
(新字体・現代仮名遣いに改めました)

『太平洋戦争下の全国の障害児学校 被害と翼賛』によれば、秋田県立盲唖学校からの応召教員は2名、戦死が2名となっていました。

戦争にかり出されたのは、何も教員だけではありません。
「技療手」という形で、生徒も出かけていきました。
『七十年史』の中に、『五十年史』からの引用で、卒業生の鈴木誠三さんの「私の学生時代」という文章も掲載されていました。

玉砕、人間魚雷と、滅私奉公の精神が至上のものとされ、若い者のあこがれもそこにあったようです。昭和十八年晩秋私も海軍技療士という名に憧れ、盲学生として学徒動員に志願し、全職員、生徒の歓呼に送られて上京しました。そして、やがて華と散る日のため、日夜訓練を受けたのでしたが、食糧難から来た栄養失調のため、帰郷の余儀なきに至り、再び母校に復学しました。 

盲人は軍人として戦地に赴くことができなかったので、当時の盲人団体の人たちは、自分たちも国を守る力になれないかと考え、航空パイロットのような狭い場所で働く兵士の疲労回復に貢献しようと考えたのです。
「技療士」は、軍属の中でも「雇員」と呼ばれる、旧制中等学校卒業者や採用職種について3年以上経験を有する者、もしくは陸海軍下士官以上出身者等を想定した資格として設定されていました。しかし、実際は、より弾力的な採用が可能な「傭人」としての「技療手」として運用されたようです。
1943年(昭和18年)12月に「海軍技療手訓練所」が作られ、翌年には陸軍でも技療手の運用が始まりました。

秋田県からは、鈴木誠三さんほかにも技療手となった人たちがいました。秋田県鍼灸マッサージ師会のホームページには、

昭和18年 海軍技療手団出陣
大東亜戦争の航空隊員へ疲労を一時も早く取り除くべく体調回復を目的としたマッサージの滅私奉仕団「海軍技療手団」が結成され、秋田県師会より団員8名が出陣。東京で3ヶ月の訓練を受け、それぞれ任地に赴いた。会員の中には痛ましくも戦死され無言の帰宅をされた方も居る。

と書かれています。戦地に赴き、戦死された方もいらっしゃいました。

「滅私奉公の精神が至上のものとされ」とありましたが、社会全体がそれを当たり前とする中で、戦地に向かうことに「憧れ」、「晴の招集に応じ」、そして戦地で「華と散る」… そんな世の中が二度と来ないことを願います。

<参考資料>

  • 『校報 創立三十周年記念号』秋田県立盲唖学校(1942年)
  • 『七十年史』秋田県立盲学校(1982年)、引用された文献として、『五十年史』秋田県立盲学校(1962年)
  • 『太平洋戦争下の全国の障害児学校 被害と翼賛』清水寛、新日本出版社(2018年)
  • 一般社団法人秋田県鍼灸マッサージ師会 ホームページ
  • 「旧日本軍における文官等の任用について――判任文官を中心に――」氏家康裕、『防衛研究所紀要第8巻第2号』、2006年

(2025年5月9日 再掲載)

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