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110周年・できごと (戦争中のこと 1)

(2022年 初掲載)

秋田県立視覚支援学校オリジナルキャラクターのチューモくんです。
「チューモくん日記」では、本校やその周辺のことについて語っていきます。

秋田県立視覚支援学校は、令和4年度で創立110周年。今回は、戦争中の本校の様子についての話題です。

本校『七十年史』には、戦争中の学校の様子について、それ以前の文献からの引用も含めて紹介されています。例えば、『五十年史』から引用された、卒業生・湯沢信子さん(旧姓 合川)の「大東亜戦争の頃」には、

又昭和16年12月8日大東亜戦争が勃発し、我が校でも夏は農業をいとなみ、冬は雪中行事と、授業らしき授業もせず盲唖生ともに手をとりあってがんばったのもみな思い出となりました。

と、あります。
この文章には、さらに、1942年、43年(昭和17年、18年)には、失明傷痍軍人が入学してきたこと、防空壕を掘り、昼夜の区別なく、聾部の生徒と一緒に防空演習をしたことなどが書かれています。

秋田県立聾学校の『記念誌 創立五十年史』から引用された、鈴木秀治氏(後に聾学校長)の「戦争による疎開の頃」によれば、盲部は由利郡西滝沢村に、聾部は河辺郡戸米川村に疎開することになり、ピアノは疎開先の小学校に使ってもらおうと、1945年(昭和20年)7月12日に戸米川小学校に運んだとのことです。
聾部が疎開先を戸米川村に決めたのは、聾部長だった安藤恭治氏の縁故によるものだったそうですが、盲部が疎開先に決めた西滝沢村は、盲部としては縁もゆかりもなく、当時、聾部にいた佐々木啓二郎氏が、その村の出身であるということで交渉をしたとのことです。
この疎開を巡る動きの中で、学校の資料の多くが失われたということです。
そして、終戦直前ではありますが、秋田県立盲唖学校の校舎は、木船工補導所(軍需工場)に明け渡されたと書かれています。

『太平洋戦争下の全国の障害児学校 被害と翼賛』によれば、戦時中の秋田県立盲唖学校では、校庭を耕しての野菜作り、雄物川の河原での馬鈴薯等の栽培、養豚、盲唖生10数人での薪取りなども行われたようです。
このうち、薪取りについては、『七十年史』に、当時生徒だった元教諭の熊谷幸二郎氏の談として紹介されていました。
新屋大橋から川船で4時間くらい遡り、大正寺の新波(あらわ)というところに上陸、さらに6キロくらい入ったところにある、当時、舎監をしていた小野寺栄喜氏の自宅を拠点として行われた作業だったようです。
日々の燃料を手に入れるのも大変な作業であったことが想像できます。

盲、聾生共同の作業で、新波の河港まで薪を下げるのが仕事であった。
ここは河辺郡の最奥で山越えすると仙北の境や由利の大内に出る山峡の部落であった。
夜、寝る時刻だなと思ってランプの灯を消すと聾生が何やら騒ぎ出した様子で、よく考えてみると盲生は暗くても夜語りできるが聾生は暗いと口話や手話によるおしゃべりができなくて不便だということが分かった。

このような状況で、お互いの障害理解が進むというのは皮肉な気もします。

日本全体が大変だった戦争中、秋田県立盲唖学校においても、見えない・見えにくい生徒たちと、聞こえない・聞こえにくい生徒たちが、防空壕を掘り、畑を耕し、山奥に薪を集めに行くなど、協力し合いながら乗り越えた歴史がありました。

こんなつらい時代は二度と来てほしくないですね。

参考資料

  • 『七十年史』秋田県立盲学校(1982年)

※引用された文献として、『五十年史』秋田県立盲学校(1962年)、『記念誌 創立五十年史』秋田県立聾学校(1962年)

  • 『太平洋戦争下の全国の障害児学校 被害と翼賛』清水寛、新日本出版社(2018年)

(2025年5月7日 再掲載)

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