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110周年・ひと 盲聾分離の訴え

(2022年 初掲載)

秋田県立視覚支援学校オリジナルキャラクターのチューモくんです。
「チューモくん日記」では、本校やその周辺のことについて語っていきます。

秋田県立視覚支援学校は、令和4年度で創立110周年。
今回は、創立当時の卒業生であり、その後、職員になった齋藤時治氏を紹介します。

本校の書庫の奥から、1枚のコピーが出てきました。
「秋田盲唖教育完成期成会」による、1937年(昭和12年)10月15日付けの秋田県に対する請願書です。
請願書の下部には、封筒の裏書きと思われる住所と名前が複写されています。
連絡先である秋田県盲唖教育期成会の事務局には、「斎藤時治」という名前が書かれています。

齋藤時治氏のことをひもとく前に、この請願書について見てみましょう。
請願事項は二つで、一つは、「現盲唖学校ヲ盲学校聾唖学校ト分離シ盲唖教育ノ完全ヲ期セラレタキコト」、もう一つは、「盲唖学生ノ学資補給額ヲ更ニ増額セラレタキコト」となっています。
内容をかみ砕いて説明すると、一つ目は、「1924年(大正13年)8月の盲学校令発布以来、盲聾分離が各地で進んでいると聞き及んでいる。本県においても、生徒数が増えて教室を増築したり、民家を借りて寄宿舎にしたりしている窮状があるので、早く盲学校と聾唖学校を分離して、それぞれに合った教育ができるようにしてほしい」ということでした。
二つ目は、「本年度から県費で学資補給をしてもらったことで、入学者が過去最高の40人になった。これを継続してもらえないと、来年度の入学者は学費に困窮してしまい、入学を希望しなくなると思われる。不学の盲唖者が多い県なので、今年度の倍額の補助金をいただき、盲唖者を救済してほしい」ということでした。
秋田県立盲唖学校が、盲学校と聾学校に分離したのは、1948年(昭和23年)の学制改革による、盲・聾の義務制実施の年になりますが、早い時期から、盲聾分離を願い出ていた人たちがいたのです。

齋藤時治氏は、秋田県立盲唖学校技芸科1期生で、1914年(大正3年)に卒業し、1915年(大正4年)1月から1923年(大正12年)3月まで技芸科の嘱託教員として勤務しています。
1期生は6人いましたが、実は、彼らは、入学前から、すでに開業していた鍼按の師匠たちだったのです。
開校当初、技芸科の教師は、松田宇一郎氏が一人だけでした。その彼を応援すべく、県中央部の30歳を過ぎた師匠たちが「入学」し、卒業後に3人が教員となっていますし、それ以外の人も長年に渡って校外臨床実習の世話をしたり、地域の業界をまとめるなどの活躍をしています。
その中でも、齋藤時治氏は、本校創立以前に秋田市にあった私立明導館で松田氏と共に学んだ相弟子であり、『七十年史』には、「特に意気投合していたと思われる」と記されています。

そうした志をもって、本校の黎明期を支えた人だからこそ、多くの視覚障害者、聴覚障害者が、それぞれの障害の特性に合った学習環境で、安心して学べることを願って盲聾分離や学資補助を請願したのでしょうね。
私たちも、そうした教育への熱い思いを受け継いでいきます。

 <参考資料>

  • 「七十年史」秋田県立盲学校(1982年)

(2025年6月17日 再掲載)

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