110周年・できごと(東京パラリンピック)
(2022年 初掲載)
秋田県立視覚支援学校オリジナルキャラクターのチューモくんです。
「チューモくん日記」では、本校やその周辺のことについて語っていきます。
秋田県立視覚支援学校は、令和4年度で創立110周年。
今回は、校史の中のこぼれ話「東京パラリンピックに出場?!」を紹介します。
本校のホームページの沿革史には、「昭和39年 パラリンピックに出場(2人)」とあります。
ところが、2021年9月5日の「秋田魁新報」紙には、「64年東京パラ出場、故・高野さん 参加契機に行動力発揮」という記事があり、その中に、「日本人選手が初めて出場した1964年の東京パラリンピックに、秋田県大仙市の高野龍治さん(2018年死去)が本県からただ一人の日本代表として参加した。」と書かれていました。
これはどういうことでしょうか?
「七十年史」(1982年)の校史年表を改めて見てみると、
「昭和39年11月13日 第十三回パラリンピック(身体障害者国際競技会)に、煙山満(走幅跳一位)、花田定信(百米円周走一位)の二人が出場し、各国選手と交歓する。14日まで。」
と、書かれています。
しかし、日本パラリンピック委員会のホームページにある「東京1964パラリンピック競技大会日本選手団名簿(選手)」を見ると、陸上競技の欄に「高野 龍治 男 28 秋田県」とはありますが、本校選手の名前はありません。
同じく、日本パラリンピック委員会のホームページでは、東京1964パラリンピックは、正式名称を「第13回国際ストーク・マンデビル競技大会」と言い、1964年 11月8日開会式が開かれ、同年11月12日に閉会式が開かれたとあります。21か国から378名の選手が参加したようです。
本校の選手が出場したのは、まさしく第13回大会なのですが、出場した日付が閉会式後の2日間になっています。
謎は深まるばかりです。
その答えは、「図説 盲教育史事典」という本の中にありました。
「パラリンピックということは下半身マヒParaplegiaとOlympicのリンピックをつなぎ合わせたもので、車椅子を使う下半身マヒ者のスポーツ大会という意味である。これは日本で初めて名付けた名称であった。もともと身体障害者には前記下半身マヒ者の他に、手足や目や耳の不自由な人もたくさんいるので、それらの人たちにも参加してもらいたい、一緒にやろうという希望念願から、前者を第一部、後者を第二部として、全身障害者の競技会にしたものである。しかしパラリンピックの名はその年だけで、翌年からは全国身体障害者スポーツ大会と名を変え、日本身体障害者スポーツ協会が、国体開催県と共催で毎年その県で実施するようになった。」
つまり、本校の生徒がパラリンピックに出場したというのは間違いないのです。
しかし、この「第二部」は、後に正式にパラリンピックと呼ばれるようになる、当時は車いす使用者を対象としていた「国際ストーク・マンデビル競技大会」としては、カウントされていないということのようです。
そして、本校生徒が出場した「パラリンピック第二部」は翌年から全国身体障害者スポーツ大会となり、現在は全国障害者スポーツ大会として続いているということだそうです。
現在の日本パラリンピック委員会のホームページに記録は残っていませんが、秋田から2人の選手が出場して、どちらも1位であったことは、誇らしいことですね。
ところで、花田定信選手が出場した100メートル円周走は、日本で考案された競技です。
前述の「図説 盲教育史事典」によれば、考案者は後に文教盲学校長を務めた高橋惣市氏で、氏が東京盲学校時代のことだそうです。具体的に何年とは書かれていなかったのですが、高橋惣市氏は1957年(昭和32年)から1961年(昭和36年)に全国盲学校長会長を務めていますので、それより以前の1940年代後半から1950年代半ばまでではないかと思います。
<参考資料>
- 「図説 盲教育史事典」鈴木力二、日本図書センター(1985)
(2025年5月12日 再掲載)